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ソファ製作

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【「椅子づくり百年物語」( O M 出版)宮本茂紀著より】技術者のなかにもファンをつくった 倉俣史朗の「ホフマンヘのオマージュ」

 倉俣史朗さんと知合ったのは、八〇年代の
初め、梅田正徳さんの紹介でした。それ以前
にも、施工会社のイシマルを通して倉俣さん
のデザインした家具を製作する仕事はやって
いたのですが、ご本人に会ったのは、そのと
きが最初でした。「ホフマンへのオマージュ」
は、それからしばらく経った八七年(昭和六
二)の初め頃に製作七ました。倉俣さんから
直に一任してもらった印象深い仕事です。
美しく、かつ坐り心地よく
椅子の名前からおわかりのとおり、この椅子
はヨーゼフ・ホフマンのハウスコーラーとい
う椅子が、デザインの原型になっています。
製作にあたって倉俣さんから出された条件も、
ひとつには「ハウスコーラー」と同じ形に
することでした。その他は、縁に電球を使う
こと、そしてそのために二〇センチ角くらい
のコントローラーを中に入れられるようにす
ることでした。   
 まず「ハウスコーラー」を実測して作業に
かかりました。ですから、この椅子の外観は、
原型と二〇ミリと違わないはずです。苦心
したのは、やはり電球を使うということです。
ただ電球を使うのならともかく、やはり坐
り心地もよくしたいと思いましたから、坐っ
たときに電球が当らないこと、壊れないこと、
に気を遣いました。しかも見たときに、電
球がきれいに並んでいなければなりません。
 電球をテープでつなげた既製品が出ているの
で、それの一・五センチ幅のものを使いました。
問題は、体が電球に触らないようにするため
に、沈みすぎないクッション性をもたせること
と、それでいて電球を奥にもぐりこませすぎな
い、その兼合いを図ることです。あまり奥にも
ぐらせてしまうと、体には触らないけれど、見
る角度によっては、電球の光が見えなくなって
しまうからです。
 苦心の末、図のような構造にしました。
卜ランスやコントローラーなどの装置が壊れた
ときの、メンテナンスもしやすいようになって
います。重量もできるだけ軽くするよう心がけ
たのですが、結果としては三五キログラムぐら
いになってしまいました。

頭のなかに仕舞われている
実はこの椅子を製作する三、四年前に、家具に
対する意見の食い違いで、私は倉俣さんと多少
気まずい思いをしてしまったことがありました。
 兪俣さんのデザインする椅子は、シャープだ
けれど坐り心地はあまりよくないものが多い、
という印象を私はもっていました。そのことを
話して、「こうしたらシャープでも坐り心地が
よくなる」といった提案をしたところ、倉俣さ
ん自身の体調が悪かったこともあり、「病状を
悪化させる気か」と怒られてしまいました。哲
学者のような印象をもつ倉俣さんが、そのとき
ばかりは変に弱々しく見えて、それ以降私は意
見をいうのをやめてしまいました。施工会社を
通して手がけた仕事も、私自身が出向くことを
しなくなり、そういう間が続きました。

倉俣史朗
昭和九年(一九三四)~平成三年(一
九九一)インテリアデザイナー。東京
生れ。桑沢デザイン研究所卒業後、三
愛宣伝課、松屋インテリアデザイン室
嘱託を経て、昭和四〇年クラマタデザ
イン事務所設立。「変型の家具」「ミ
スブランチ」「ハウ ハイザ ムーン」
など革新的な家具、三宅一生の国内外
のブティックなど七〇年代、八〇年代
のインテリアデザインを牽引した。

電球の縁どりは、内蔵のコントローラーにより、
順繰りに点滅させることもできる。
張地は濃紺のビロードである。
W900×D765×H920(SH400)

 そんなことがあって以来初めて、突然倉俣
さんから直に依頼されたのが、この「ホフマン
へのオマージュ」でした。ですからとてもうれ
しかったのを覚えています。イシマルを通し、
でも仕事内容は全面的に任せるといってくれま
した。
 その後、倉俣さんは自分の家で使う椅子は、
亭はり坐り心地のいいものがいい、というよう
なことをいっていました。デザイナーとして、
次々と新しい挑戦をしていく姿の間に、そんな
一面を見ると何だか安心したのです。そして、
こちらがいったことを、よく覚えていてくれる
のにも感心しました。このことに限らず、倉俣
さんは、こちらが忘れた頃になって、「あの方
法で、こういうことができないかな」と聞いて
くるようなことがときどきありました。そのと
きはとりたてて反応がないので、こちらもそれ
っきりにしているのですが、倉俣さんの頭のな
かにはちゃんと仕舞われていたのです。
 ご存じの通り、倉俣さんがデザインするもの
は、常に新しく前衛的で、そのぶん職人にとっ
ては手間のかかるものばかりでした。そのこと
を一番知っていたのは倉俣さん自身でした。私
に会うときも必ず「いつもわがままいってすま
ないね」が第一声でした。
私はデザインが下手なんだ
デザインの世界では大先生の倉俣さんですが、
そうした職人に対する心配りには、すごいもの
がありました。自分のやりたいことは徹底して
通す、展覧会の朝までだってつくり直しを続け
る__そういう姿勢を貫くためには、職人に動い
てもらわなければ、どうにもならないこと、そ
ういうものにデザインが支えられていることを
知っていたからです。仕事がたて込んだ後には
ワインを届けてくれたり、なにくれとなく職人
たちをねぎらってくれます。「ああ、気を遣っ
てくれているんだな」とわかるし、仕事のひと
つひとつにも、ここはこうできてよかったとか、
こういうこともできるんだねとか、ちゃんと褒
めるところは褒めてくれます。だから職人たち
もやる気になります。徹夜仕事も、倉俣さんの
仕事ならやるしかないだろうと、積極的に動き
ます。私のところでは、材料選びもよくやりま
たが、この人が欲しいと思うものを探してきて

あげよう、と思わせるのが倉俣さんという人で
した。職人たちをその気にさせ、まとめていく
力が倉俣さんにはありました。技術者のなか
にもファンをつくった、それが兪俣さんのす
ごいところだと思います。ですから、めんど
うな仕事だったけれども、職人たちが素直に
動くので、仕事運びはしやすかったのです。
倉俣さんのデザインを学びたいデザイナーは、
今でも多いでしょうが、こうした見えないと
ころも学んで欲しいものです。
 「ホフマンへのオマージュ」も、仕上りを
とても喜んでくれました。夜になったら電球
をつけるから見に来いと、誘ってくれたりし
ました。
 その後もいくつか仕事をしました。平成二
年の一一月頃、あるパーティで会ったとき、
倉俣さんはこんなことをいっていました。「
私はデザインが下手なんだ。スチールはいう
ことをきいてくれるけど、天然の材料は難し
くて」。倉俣さんと仕事の現場を離れて一対
一でゆっくり話をしたのは、それが最初で最
後でした。技術に対する前向きで素直な姿勢
がとても印象的でした。

製作中の様子。電球が埋もれ
ないように、それでいて背中に当た
らないようにするために苦心した。
ウレタンフォームは硬軟を使い分け、
適度な硬さをもたせてある。

- Company -会社概要

MINERVAの軌跡

“日本初の家具モデラー”の創業者の理念を受け継ぎ、
天皇陛下の玉座修復から西洋家具市場への発信まで取り組んでいます。

1966年8月、東京・品川区で創業した「五反田製作所」が前身のミネルバは、特注家具の製作や修繕を手掛けるプレミアム家具メーカーです。
世界最大規模の国際家具見本市「ミラノサローネ」への出展、大手自動車メーカーからの依頼によるシートの試作、一流ホテルやレストラン用、ヨーロッパハイブランド特注ソファの製作など、幅広い分野で豊富な実績を築いてきました。

沿 革

11月22日(木)放送予定のテレビ東京系「二代目和風総本家」の「皇室と職人~ニッポンが誇る最高峰の技~」では、天皇陛下の儀式用の椅子「玉座」の修復を手がけるミネルバの職人が紹介されました。

テレビ東京系「二代目和風総本家」公式ウェブサイト:
http://www.tv-osaka.co.jp/ip4/wafu/
https://twitter.com/wafusohonke

※写真:テレビ東京系列和風総本家より

創業者の宮本茂紀は日本初の“家具モデラー”として、世界的な建築家やデザイナーの作品を具現化してきた実績があります。

現在、代表取締役の宮本しげるが二代目家具モデラーとしてデザイナーやアーティストが起こすデザインやイメージ、想いを的確に読みとって実際の家具製作へと結びつけています。

※玉座の修復に取り組む初代モデラー
 創業者 代表取締役会長 宮本 茂紀(右) 黄綬褒章受章
 二代目モデラー 代表取締役社長 宮本 しげる(左) 東京マイスター受賞

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