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【「椅子づくり百年物語」( O M 出版)宮本茂紀著より】大きな人の小さな椅子小さな人の大きな椅子

終戦後、GHQ(連合軍総指令部)が皇居を
見下ろす東京日比谷の第一生命館に拠点を構え
ていたことは、みなさんよくご存じでしょう。
当時元帥だったマッカーサーが使っていた部屋
は、今もそのまま残されています。一〇年ほど
前、見せてもらう機会がありました。

意外なほど小さい
部屋のなかには、当時使っていた椅子も残され
ていました。すかさず私は寸法を測り、裏側が
ちょっと破れていたので失敬して手を突っ込み、
なかの構造も調べてみました。
 終戦当時、私は国民学校の二年生でした。マ
ッカーサーといえば天皇陛下よりも偉い人、そ
して「大きな人」という印象が強かったのを覚
えています。事実、新聞や雑誌で天皇陛下と並
んだ写真を見ても、頭ひとつは充分マッカーサ
ーの方が大きいのです。ただ単に背が高いので
はなく、何しろ股下が長い。一八〇センチは優
にあったと思われます。
 ですから、そのマッカーサーが愛用した椅子
にしては案外小さいというのが、実物を見たと
きの第一印象でした。座の奥行は五一センチし
かありません。それもそのはず、当時の第一生
命社長、石坂泰三氏が使っていたものをそのま
ま使用したそうです。特別自分用に、持ち込ん
だわけではありませんでした。
 表面は色がはげ落ちていますが、重厚な緑色
の革張。マッカーサーが滞在していたのは、昭
和二〇年八月から二六年四月までで、その後一
年ほど後任のリッジウェイ大将がこの椅子を使
っています。
石坂社長が、どこで入手した椅子かは不明です
が、おそらく国産のものです(のちに判明、「
あとがき」参照)。下ごしらえの仕方—-つま
り土手のつくりかたや鋲の打ち方、革のひだと
りなどが、極めてきれいでシャープです。これ
は当時の国産の特徴です。ヨーロッパのものは、
土手の先端が丸くソフトに仕上げてあります。
昭和一〇年前後に、かなり腕のいい職人がつく
ったものでしょう。
 日本の椅子は明治以降に発展し、戦後まで
は特権階級のためだけにつくっていましたか
ら、大正から昭和の初期にかけて技術は急成

マッカーサーの椅子

吉田茂が愛用した椅子

白州次郎
明治三五年(一九〇二)~昭和六〇年
二九八五) 戦後の実業家、政治家。
東京生れ。ケンブリッジ大学卒業。帰
国後、日本食料工業、日本水産各取締
役などをつとめる。敗戦後、吉田茂が
駐英大使のとき親密になった縁で、終
戦連絡部中央事務局参与に起用、昭和
二三年初代貿易庁長官。この間、吉田
と総司令部幹部との連絡役をつとめた。

吉田茂
明治一一年(一八七八)~昭和四二年
(一九六七) 外交官、政治家。東京
帝国大学卒業後、外務省に入り、天津、
奉天、ロンドン領事官補を歴任。昭和
二〇年の敗戦後、束久邇内閣の外務大
臣、幣原内閣も留任し、連合軍総司令
部との折衝を通じてマッカーサーら高
官との結び付きを強めた。昭和二一年
組閣、憲法改正、農地改革などを実施した。

石坂泰三
明治一九(一八八六)~昭和五〇(一
九七五) 大正、昭和期の財界人。東
京生まれ。東京帝国大学卒業後、逓信
省を経て、大正四年に第一生命に入り、
のち社長に就任。工業倶楽部専務理事、
第一相互貯蓄銀行会長など役職を歴任。
敗戦後、公職追放され、解除後の昭和
二四年東芝社長に就任、様々な要職を
経て、経団連・日本生産性本部名誉会長。

ダグラスーマッカーサー
Douglas MacArthur
一八八〇~一九六四 アメリカの陸軍
軍人。一九三〇年陸軍参謀総長となり、
四一年(昭和一六)ともに在フィリピ
ンの米軍司令官として対日戦を指揮。
四五年(昭和二〇)日本降伏により連
合国最高司令官として来日、第一生命
館を拠点に、日本の民主化指令を発した。

長しました。世界でも(イクラスの技術があ
ったはずです。このマッカーサーの椅子をつ
くった職人だけでなく、家具職人全体のレペ
ルがここまであったということです。
 座は厚い板を使い、力布を敷いてあり、束
土手で形を整え、スプリングは七巻のコイル
スプリングを九仞も使用。ちなみに、七巻の
単独スプリングを使ったのは昭和六〇年頃ま
でで、現在はもうありません。ヤシの繊維と
馬毛をクッション材にして、上に薄い布、さ
らに綿をのせ、その上から革を張っています。
肘も背中もきっちり形をつくってあります。
 革の厚さはI・八~ニミリくらいの厚いも
の(現在は丁三~丁六ミリ)が普通です。緑
の塗装はおそらく漆でしょう。しかも、この
革の張り方に注目してください。背の縦の折
畳みはすべて右から左へ、斜の皺は上から下
に折ってあります。ゴミがたまらないように、
また掃除がしやすいようになっています。な
ぜなら、たいていの人は右ききなので、右か
ら左へ拭くことを考えているわけです。

照的に大きい
実は当時を代表するもう一人の人物、吉旧茂
の愛用した椅子にもお目にかかりました。
 吉田さんの懐刀と呼ばれた白州次郎さんの
ところに出入りしていたことがあり、そこに
あったのです。この椅子は、もとは白州さん
が外交官としてロンドンにいるとき買ったも
のだそうです。日本にもち帰り使っていたと
ころ、終戦後、吉田さんが「俺に貸せ」とい
うことになり、大磯の自宅でずっと使ってい
たそうです。吉田さん亡き後、再び白州さん
が引取ったとのことでした。こちらはマッカ
ーサーとは対照的で、小柄な吉田さんにして
は随分大きな椅子でした。座の奥行が六五セ
ンチくらいあり、四方あおりの古典的なもの
です。座にも背にも、肘にもスプリングが入
っています。
かなりボロボロになっていたので「張替え
ましょうよ」といって、白州さんから叱られ
ました。吉田さんの仟が染込んだ大切なもの、
そうでなくても気を遣って坐っているのに、
張替えるなど何事かというのです。自分が生
きているうちは大切に側に置きたいというこ

とでしたので、なかを全部はずして、裏打ち
して。大切なにおいや手垢がなくならないよ
うに補修をしました。ヨーロッパ産のもので、
坐り心地のいい椅子です。日本のものより、
つくりがおおらかです。まったく同じ時代に、
大きなマッカーサーは小さな椅子を、小さな
吉田茂は大きな椅子を、それぞれ愛用してい
たと思うと面白いものです。コーンパイプと
葉巻にも通じるものがありそうです。
 どちらの椅子も、つくられてからおそらく
七〇年は経っているはずです。その味わいが
深くなるほど使われたのは、主の存在感はも
とより、それを受止める確かな技術がそこに
あったからでしょう。

マッカーサーの執務室。机も、小椅子も当時のもの。即断即決を旨としたマッカーサーは、引出のないこの机を愛用したという。東京日比谷の第一生命館のなかに様々な資料と一緒に保存されている。現在は、一般公開はしていない。

すっかり革がすり減って、白くなってきているが、もとは緑の革張だった。椅子の張地は、下向きに畳んで張らないと、ほこりがたまる。一見、何でもないようなことだが、こうした工夫が永くもつ秘訣である。W760 ×740 × H860 (SH460)

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