老人から子供まで幅広く
喜多さんは、一九六一年にイタリアに渡りま
す。カッシーナ社の先代社長チェーザレーカ
ッシーナと出会うのが六九年。初めて仕事を
依頼されるのが七五年のこと。「東洋的な雰
囲気の椅子を」と期待されます。
喜多さんは、ウインクチェアーの原型とも
なる粘土でつくった椅子の模型を、七二年頃
にはすでにつくっていました。フレックスー
ホームという会社に、プレゼンし試作もして
いたようですが、この会社はあまり興味を示
さず実現はしませんでした。その模型をカッ
シーナ社に見せたところから、ウインクチェ
アーの開発が始まります。当初の模型は現在
のものとは随分形も違うそうですが、当時カ
ッシーナにいたモデラーたちが、とても面白
がってくれたといいます。七六年のことです。
ただ、同社がこの椅子の開発に躍起になり
だしたのは、二年後のことでした。ゆっくり
試作をしていたらしいのです。部品の調達に
時間がかかったということもあったようです。
それというのも、あの椅子は自動車のルノー
の部品を一部に用いているからです。材料は、
当時としては(イテクなものを使いたい、デ
ザインは老人から子供まで幅広い層に受け入
れられるものを、と考えたそうです。
服を着せかえるようにカバーが変えられて、
洗濯ができるというアイディアも、そんなと
ころからきているようです。
七八年には現在の形がほぼできあがり、翌
年完成。完成したとき、社内でとても評判が
よく、これはすごい椅子が誕生したといウィ
ックチェアーを囲んでスクラムを組んで歌を
歌う騒ぎだった、というエピソードが残って
いるほどです。その年に社長のチェーザレー
カッシーナさんが亡くなります。喜多さんと
しても、ウインクチェアの生みの親を亡くし、
とても残念だったと思います。
そして八〇年、春の発表会だけでなく九月の
ミラノーサローネでもこのウィンクチェアー
は話題となり、お年寄にプレゼントしたいと
いう注文がたくさんきたそうです。ニューヨ
ークの建築家の間でも評判になりました。私
はといえば、雑誌を通してこの椅子を見たの
ですが、パンツをはいているような、水着を
着ているような、「これも椅子かなあ」と不