日東京曇り名古屋雨 vol.10 11/06/17
かねてから、我々の作った椅子を売りに行く、行商的な旅を計画してきた。
2泊3日で名古屋、京都を目指す計画を立て、ようやく実行に移す。
午前10時、椅子達の積み込みは終わる。
天気予報では、東海地方は午後から豪雨と風が強くなると報じていた。改めて、忘れ物は無いか手帳を広げる。
冒頭に書き込んである「安全第一、眠気を覚えたら直ぐ休む事」を自分に言い聞かせ、10時10分運転席に着く。
こんなトラックを運転する事は初めてで、心細く不安であった。エンジンを掛ける。
ジーゼルであるが、軽い心地よい音に聞こえた。静かにアクセルを踏む。
左に曲がり、すぐ右に曲がり国道までの100メーター程の運転で、ハンドルさばきも感じ取り、運転に対する緊張感の大半が解消された。
1分位で戸越の首都高速に入った。
営業的な活動は、新たに挑戦する世界で、スタートライに立つ思いがした。
ふと、中学生の頃、母親と池部落に何度か行商に行った事が思いだされた。
父親が捕って来たアジやイカ、サンマを背負い、我が家から上り坂で、足元の悪い山道を4キロ程の池部落に向かう。
水田やワサビ農家が多く、南西に天城連山を背負い、大室山の裏手になる。
魚を売るというより、コメと物々交換する事が多かった。
そんな、少年時代から現在に至る、自分自身を客観的に見られるドライブであった。
浜松あたりから降りはじめた雨は、たいしたことは無く、名古屋に着いた頃、少し強い降りになったが、心配した程ではなかった。
午後4時、宿泊するビジネスホテル岩倉に着く。5時30分名古屋駅のホテルマリオットで大前氏の紹介を受けている、建築家の神谷俊徳氏と落ち合う。
仕事も文化的な活動もこなしている精力的な人物である。神谷氏の誘いで、リアル・スタイルの鶴田浩社長を訪ねる。
8時過ぎ、ふとん店の丹羽拓也氏と共に神谷氏がデザインしたという、飲み屋で馳走になる。11時頃、ホテルに戻る。
初めて出会った人たちに、暫くぶりに出会った仲間の様に接してもらえた事に感謝し、人生の楽しさを噛みしめた。
前向きに歩いていれば何かが見えてくる。
そんな言葉を信じながら、行商の初日をクリアーした。
3/31.晴れ vol.9 11/4/7.
我が家の駐車場の桜の花も、昨日まで数輪だけ咲いていたが、今朝は100を超えていた。花の季節を目の当たりにしているが、今年は例年とは全く異なる年である。自分の人生間の中で、此の3月31日は新たな決意を固め、4月1日から行動に移す、希望を背負った大切な位置づけの日で有った。1956年巳之三郎親方の下を離れた時、次枝と結婚した1968年も此の31日であった。
昨年の4月から、明日(今年の4月1日)の行動準備に思いを馳せてきた。困難な課題も山積するが、メリタリアの展開を中心に挑戦的な目標を固めていた。3月11日の講演(新宿オゾンの24階2時から)も、その思いを皆さんに伝えたく臨んだ。2時45分頃講演の最中、足元がふらつき、立っている床が円を描くように大きく揺れ、目まいを感じた。伊豆育ちの自分は、地震の揺れに慣れていた。覚えのない揺れに、己の体調に異常が起きたのではと考え、お迎えが来たのではないかと、瞬間的に感じ取った。あの揺れが、この様な大震災の基で有ったとは、想像することも出来なかった。
時間の経過とともに、テレビ報道により此の未曾有の災害の概要が見えてきた。宮古に住む大久保(義弟)の兄弟の2家族が命は助かったが、家と家財一切は流されたとの報せも受けた。自然の驚異に直面している人々、更に人災ともいえる原発事故も重なった人々の現状に思いを馳せた。此の2週間、自分はどの様に対応してよいのか、無力感だけが膨らむばかりで、気力も失せていた。この様な厳しい環境の中で、人々が復興へ道を力強く進み始め、ボランティアで活動している人たちの姿も、テレビで報じられていた。胸が締め付けられ、目頭が熱くなった。80歳を過ぎた気丈な先輩の姿勢に、人生とはどの様に有るべきか、教えられた。如何したら被災者の復興の一助になり、此の時代を共有し行けるかと考える。戦後の復興期に育った経験者として、未来に希望託し、改めて挑戦しなければと自分に言聞かせた。
新年明けましておめでとう御座います vol.8 11/1/5. 光陰矢の如し、と言うが、2010年は特に強く感じ、思いあえいだ一年であった。幾つかの希望的な期待がことごとく打ち砕かれた。利益は少ないが、コンスタントに流れる仕事として、開発的なことにも挑戦したが頓挫してしまった。精神的にも受け身に回ってしまった年であった。経済社会の動向が、自分の理解の枠から、大きく隔たっている事も自覚させられた。モノ作りに創造的な快感を覚え、作ることに挑戦的であれば、三食の飯と太陽が、付いて回ると言う時代が懐かしくもある。
ひと昔前、千葉工業大の大内一雄教授が「売れるからと言うだけで、造るモノが必ずしも良いもので、人にやさしいものであるとは言えない。人は気候風土、環境、群れの習性等によって、価値観も異なる。多様な方向に進みながら、地域的な社会を形作って行くのであり、モノを作る技の進化は、同じようなものであっても、繰り返し作っていく内に地域独特な技が育つのである」と言っていた。大内教授の言葉を借りるまでもないが、モノ作りの一員として、改めて心に留めて置きたい言葉である。
2009年春からイタリアのメーカー メリタリアの仕事に取り組むことになり、一年余りの歳月が流れた。進展らしき気配は感じるが、これからの課題も多く足踏み状態で、苦慮している。此のメリタリアには、1970年代(s45) イタリアカシーナから世界に向けて、感動と驚きを発信し続けていた、トビヤスカルパ(75歳)、マリオベリーニ(75歳)、ガエターノペッシェ(71歳)、喜多俊之(68歳)などが集っている。彼らが30歳前後のころ、私は1969年(s44)、C&Bのソファー作りに関わっていた。そこには明るさと勇気と知が随所に溢れていた。あれから40年の歳月を隔てて、メリタリアブランドを介し、改めてイタリアンデザインの旗手たちと、もう一仕事することになった。
技術も文化も風土や環境により進化する。地球上にいろいろな価値観が点在していることが健在だと考える。日本のモノ作りの置かれている、経済環境は非常に厳しいが、本来あるべき姿を見直す時でもあるだろう。2010年の現実を踏まえ、1953年15歳で東京に出てきた頃の、初心に思いを馳せながら、2011年は改めて挑戦したいと考える。20年後、50年後のモノ作りに希望を託し、日の出を待つ。7時過ぎ、元日の太陽はいつもより力強く、燃えるような勢いで、ビルの合間から顔を出した。
2011年元日
vol.7 10/12/7. 6時頃、屋上菜園に立つ。東の空が赤みを帯び、細い一筆で印をつけた様な黄水仙色の月が、愛らしく取り残されていた。
次第に富士山の雪も周りの建物も強い茜色で覆われ、点在していた電灯の光も目に入らなくなる。
建物の間から太陽の日差しが覗き始める。6時半過ぎ、羽田から上昇する旅客機が、力強く彼方に吸い込まれてゆくのも、
頼もしく感じる。
今年も年の瀬を迎えてしまったが、こんなに緊張した年はなかったように感じる。この小さな菜園で、
失われそうになる安定感を取り戻し、未来への希望を繋いで来た。
今朝も来るべき年に思いを馳せながら、太陽の光が完全に満たされるまで待った。

vol.6 10/10/17.
品川発午前9時7分の新幹線で皆と京都に向かう。山科を過ぎ琵琶湖温泉の「紅葉」と云う大きなホテルに12時半頃入る。玄関をくぐるとガラス面の向こうに、琵琶湖の静かな湖面が見渡せた。
風の吹くのを待っているのであろうか、数隻のヨットが帆を立てて休んでいる様子であった。
全国から一年ぶりに、48名の椅子張組合のメンバーが集い、総会は行われた。
いつもは中間で、コーヒータイムがあり、2時間ほどの時間を費やすが、コーヒータイムもなく、予定より早く1時間余りで終わった。
かつての元気さが消え、我慢をしている重さを感じる会議であった。湯を浴びて懇親会まで2時間近い時間があった。
1年ぶりの会話は、厳しい現状を互いに確認し会う時間であった。
「東京はどうですか、大阪は仕事がおませんね」「たまに仕事が少しあっても、安くて手が出ませんよ」
「東北も同じす、先が不安で困りやんす」「先月クレームが付いた中国製の椅子の直しの仕事があったけれど、新品より直しの方が高いと言われ、もめましたよ」、、、、、、、、
対岸から、柔らかくより込んだ金糸の様な光が、風もない静かな湖面を渡ってくる。
「お客様、ご宴会の用意ができました」女中さんの呼びかけ。一杯やって元気を出そうや。
vol.5 10/10/11.
午前4時近く床を離れる。屋上菜園の水を撒こうとしたが、
昨日のたっぷり降った雨で野菜たちの葉は濡れていた。
5時から時代劇のテレビを点け、何時もの様にニンジンジースを作り、
朝食とする。
今日は朝からよく晴れ渡った。台所から暫く振りに富士山が見える。
まだ頭は白くなかった。戸越銀座駅の先に東京タワーの鋭い先端が天を衝いている。
6時25分テレビ体操を始める。間もなく上り電車が戸越銀座駅に走り込み、ホームを離れると同時に、下りが家並みの間から顔を出す。踏切を行き交う人々の動きにも、思いを馳せながら、何と無くテレビ体操は進む。体操の最後の深呼吸のころ、上り列車が近づいて来るリズムが聞こえる。
2時間あまりの何気ない時間の中で、これからのモノ作りのあり方が、どの様にあるべきなのか、迷い続けている自分の存在を改めて確認した。
9時からプールに行ってくる。
神代ニレ vol.4 10/9/23.
小田急百貨店の催事「ジャパンブランド&クォーリティーフェア 2010/9/29(水)-10/12(火)」に出品する、
無垢の神代ニレのテーブル甲板を、初めて水ガラスで仕上げる事が気掛かりだった。
我が社は休日だが、8時の「ゲゲゲの女房」を見てからトラックを運転し、川口の島一に向かう。
小雨が降って来た。高速は空いていて、9時頃島一についた。
ウレタンの様な硬さと違い、軟らかな美しい雰囲気で仕上がっていた。
個性の強い材で、数百年地中に埋もれていた表情は、しっとりと落ち着いている様にも見え、
独特の力強い粗さを内に秘めているのも感じた。
時々強い雨が降る中を、荷台の神代ニレのテーブルを気遣いながら急いで戻った。
11時頃には屋上菜園の野菜を、昨日のみそ汁の残りに刻み込み昼食を採った。1時半、ウィルクハーンの皮革張りの型だしの修正を行いながら、
NHKテレビの取材に4時頃まで対応した。
取材班が引き揚げた後、
神代ニレのテーブルを落ち着いて眺めていた。
神代は狂わないと云うが、暴れたりしないだろうかと気になった。
素晴らしい青春徒弟時代 vol.3 10/8/15.
午後1時過ぎ日本橋高島屋に寄り、仏前に桃とコチョウランを買い求め、5・6年会っていない工藤和子さん(親方斉藤巳之三郎の娘で75歳)を訪ねる。
2時頃毛利町二丁目の交差点を曲がった。前方の交差点の角に、和子さんらしき人が目に入った。間違いなかった。彼女の前で車を止め「暫らく」と声をかけた。 「車で来たの」と私が電車で来る事を想定していた様子であった。近くのパーキングに車を入れた。私が戻るまで玄関で待っていてくれ、2階に案内された。亡くなった御主人の描いた油絵と、彼女が楽しんでいると云う、陶芸に囲まれた部屋に仏壇が有り、お参りをさせてもらった。「車で来たから飲めないね。 あんたが来たら、一緒に飲みたいと思って、つまみを作ったのよ」と手の込んだ酒のつまみが、麦茶とともに卓上に並んだ。 彼女が得意だと云う、煮込んだトマトをゼリーで包んだ料理が有った。 どれも美味く、アルバムを前に、半世紀前の出来事を、昨日の事のように語り、胸が一杯になる3時間余りの時を過ごした。
椅子屋としての斉藤家の戦後復興は、中学を出たての私が、徒弟に入った1953年4月から始まったのだ。寝る場所も、作業場所も親方の指示に従い二人で作った。 朝は5時前後人より早く起き、夜は9時前後まで働いた。3歳年上の和子さんは赤坂の料亭で働いていた。11時過ぎに都電の終電で帰ってくる彼女を、門前仲町の電停まで迎えに行った。床に就くのは何時も12時前後になった。 体力があったからだろうか、私の中には苦労したと云う感覚は少ない。同時期を3年間共に過ごした彼女に会うと、新たな勇気を覚える。
素晴らしい青春徒弟時代であったと感謝している。モノ作りに執って困難な課題の多い時代であるが、前向きでさえ有れば、今がきっと素晴らしい時なのだろうと思う。
物語を背負うモノ vol.2 10/8/7.
半世紀余りモノ作りに関わってきましたが、物語を背負ったモノの修理や修復に出会うと、感動と勇気を覚えます。
そこには先人たちの技術が存在し、歴史を積み重ね、物語を語っているからです。モノは生産された事より、存在したこと、存在し続けられる事に大きな価値が有ると思います。
8月7日自分の誕生日を期に、皆さんに愛され「物語を背負えるモノ作り」に挑戦します。
フクロウ vol.1 09/8/19.
このスペースをもらってから何を書こうか色々と迷いました。
屋上の菜園で育ったトマト。出会った人の、現在進行中のプロジェクト。先ずは、屋根にいるフクロウについてに決めました。ミネルバという会社名はギリシャ神話に出てくる女神からとりました。
その聖鳥がフクロウですから、どうしてもシンボルとしてつけて
みたくなったのです。

